ネオたぬ記

読んだ本の感想。見聞きしたこと。

ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』。それからケン・ローチ『家族を想うとき』

 出たときにわりとすぐ読んだ本ですが、ひさしぶりに。

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した | ジェームズ・ブラッドワース, 濱野大道 |本 | 通販 | Amazon

 同じ2019年に「ゼロ時間契約」(あらかじめ定められた労働時間が0時間の契約=安定した給料が保証されていない)のトラック運転手とその家族をテーマにしたケン・ローチの映画『家族を想うとき』が公開されました。この映画も本書と同様、実際には自由など全く存在しないにもかかわらず「個人事業主」的形式で働く労働者とその家族の悲哀を扱っています。

 

労働者と個人事業主

 本書では扱われているのは、現代イギリスのアマゾンの倉庫、訪問介護、コールセンター、ウーバーで行われている過酷な働き方です。

 これらの働き方の新しさ、そしてその最大の特徴は、働く人々から「労働者」という形態とそれにもとづく権利が奪われていることにあります。本書では、経営側が労働者を「個人事業主」として徹底して位置づけることで利益をあげようとする様が克明に描かれています。それらの労働者はアマゾンでは「アソシエイト」、ウーバーでは「パートナー」等、労使関係を否定した呼び名で呼ばれています。個人事業主と呼ばれながら、会社に強烈に管理され、酷使される労働者の描写は圧巻です。特にウーバーにおける強烈な(事実上の)労務管理と、この業種に入ってくる人々が求めていた「自由な働き方」のすさまじい落差の描写は印象的でした。

ブラッドワースは言います。

「私がこの仕事を通してわかったのは、様々な面において「自営業」は言葉の錯覚でしかなく、現実とはほぼ乖離したものであるということだった」(276頁)。

また経営者たちが労働者自身が自営業者になることを望んでいるのだ、と弁明していることに対しては

「労働者の権利と柔軟な働き方が水と油であるという誤った考え方は、一部の企業から発信されたメッセージでもある」(311頁)、「実際のところ、大勢の臨時労働者が謳歌する自主性と特定の法的権利とのあいだに矛盾などほとんど存在しない」(313)。

と返しています。一部企業は現実には存在しない二項対立を煽っている、と。賃労働のもとで指揮命令をうける労働者がどこまで働き方の点で自由になりえるかという問題はあるにしても、本書で描かれているウーバーやアマゾンなどを題材に考えるならば、全面的にブラッドワースが正しいでしょう。労働者の権利を拡充していくことで、柔軟な働き方や自主性が位置づけられればよいだけの話です。

ちなみに「労働者自身がそういう働き方を求めているのだ」という一定真実を含めた働かせ方の問題点は、現代日本では個人事業主問題とともにシフト労働の問題でも出てきていると思います。

 

 移民と働き方

 これらの働き方がイギリス国内に成立するうえでは、従来の産業の衰退と移民が大きくかかわっています。例えばアマゾンの倉庫労働の例では、それがもともと炭坑があった町に新たな雇用を生むものと期待されて登場したこと、しかし労働の苛酷さ故にそこは事実上移民労働者たちの現場になったことが説明されています。

 また、日本よりも労使関係が強いはずのイギリスで、なぜ日本の非正規労働以上に見える過酷で無法な働き方が成立しているのかが少し気になったのですが、友人の意見では、むしろ労使関係が強かったが故ではないか、とのこと。つまり、イギリスの場合労働組合が強い力を持っていたため、法律を用いて最低限の労働環境を保護するというより、労働組合が資本側との交渉によって実際に(法律によらずに)規制を実現するというスタイルをとってきた。そのため、既存の労働組合の組織化がなされていない領域、追い付いていない領域である移民労働者・ギグエコノミー(個人事業主形式)の領域においては法的な規制・行政的な介入が急激に弱くなるのではないか、ということです。

巨大企業が底辺労働・法律外の労働を先進資本主義国の内部につくりだしている様子が本書からは見えてきます。

 

 

誇りの源としての仕事と『家族を想うとき』

本のはじめの方には以下のように書かれています。

「仕事について書かれた本は、必然的に階級についての本になる」(11頁)。「結局のところ、これは21世紀の労働者階級の生活についての本だ。多くの人にとって、かつては誇りの源だった“仕事”は、尊厳と人間性を奪おうとする容赦のない攻撃に変わった。本書は、その変化を記録しようとする試みである」(15頁)。

ケン・ローチ『家族を想うとき』が公開されたあと、映画に対して奇妙な批評をしばしば目にしました。主人公家族のなかでのリッキー(夫・父)の愚かさを指摘するものです。曰く、無理して仕事用の自分の車など買わず、地道に介護職などの労働者として働いていればこんな目にあわなかったのではないか、と。ほかにも、家族の中でリッキーのみに「古臭さ」を見出す感想を読んだことがあります。はたして、リッキーは愚か者でしょうか。

自分がこの映画で一番象徴的に打ち出されていたと思うシーンは、リッキーが娘を助手席に乗せて仕事に向かい個人事業主として働く喜びを感じていた場面、そしてその働き方が会社によってあまりにあっさりと否定された場面です。幸福な時間があっさりと現実の労働制度によって否定されます。アビー(妻・母)もまた仕事の尊厳をその現実によって奪われるわけですが、どちらも本書がいうところの「尊厳と人間性」がその労働からむしり取られる様をつきつけています。リッキーにマッチョさを見出すことはできるでしょうが、あまり本質的な論点だとは思いません。個人事業主という働き方に込められたものを考えるとき、私たちはそれを自分に無関係な欲望と切り離し、自分のトラックを買ったリッキーを非合理的と嗤うことができるでしょうか。労働者の法的権利の拡充はリッキーのような労働者の夢も含めてなされるべきことであると思います。