ネオたぬ記

読んだ本の感想。見聞きしたこと。

読んだ:高野秀行『語学の天才まで1億光年』その他

読書家?の父に高野秀行『異国トーキョー漂流記』を貸してよませたところ、大絶賛。そうでしょうそうでしょう。あれは自分も高野作品の中でもかなり好きな作品なのです。読むと明るい気持ちになれる。ヒューマニズムと批判精神。

 

そんな高野秀行ファンな自分、ようやく新刊の『語学の天才まで1億光年』を読めました。3軒本屋をめぐってようやく入手。面白かった。

本書はこれまでの著者の言語学習をまとめたものですが、著者が言語を「探検的活動の道具」という実践的な位置づけをしていることとかかわって、これは自然とこれまでの冒険、漂流の振り返りにもなっています。各地を旅する著者はその都度その地域の言語を学習していくのですが、その中にはメジャーな欧米圏の言語のほか、プロの教師がみつからない言語、さらには文字がない言語も含まれます。25以上の言語を学んできた著者が、それぞれの言語を学習するためにその都度どのような工夫をしてきたのか、また多くの言語を学びながら旅をする中で、言語を軸にどのようなことを考えたのか。言語学習の観点からまとめなおされた冒険記であると同時に、旅・人・言葉を愛する著者の考察がひかる作品です。

本書でとりあげられている言語学習と実践の経験は10言語以上におよびます。暗黒舞踏をしに日本に来たフランス人にフランス語を習ったり、文字のないリンガラ語にアルファベットをあてはめて学習してみたり、その覚えたばかりのリンガラ語を使って少数言語のボミタバ語を覚えてみたり、ビルマ麻薬王の部下のアジトでシャン語を習ったり。覚えたての言語を使ってさらに別の言語を学習するというやり方は何度も登場します。整備された語学学習のチャンスなどない中で、学習の機会をつかみとっていく著者。言語はあくまで現地で使うための道具であるという立場から、ネイティヴの生の言葉使いを創意工夫で学んでいきます。

 

言語の学習方法も面白いのですが、あちこちの地域をめぐる高野氏ならではの、言語を軸とした各地域の人々についての考察・発見がとにかく楽しい。

フランス語ーリンガラ語ー諸民族言語の三層構造を持つコンゴでの言語の使い分け、現地の言語を習得することによる人々との親密化と、他方で「言語内序列」に参入することによる序列低下。言語がそれぞれの社会でどのような機能を果たしているか、非常に面白く読めました。

 

たとえばスペイン語圏について。著者によれば南米の多くの国で使われているスペイン語は、「言語界の平安京」だといいます。平安京言語とは、その言語としての「わかりやすいさ」を示す比喩です。通常小さい集落が時間をかけて大都市化していった場合、道はごちゃごちゃとして初めての人には非常にわかりにくい構造になってしまう。それに対して平安京は最初から「みやこ」を想定して設計された、わかりやすい大都市。言語もこれと同じで長い歴史を経た言語は通常さまざまな不規則性をたくさん抱えることになるわけですが、スペイン語にはそれがほとんどないといいます。発音と文字のずれは小さく、男性名詞と女性名詞の区別も簡単、アクセントもわかりやすく、発音の容易。その規則性は平安京のごとしであると。著者は、スペイン語がこうした「平安京言語」であったことが、南米でスペイン語系のクレオール言語(現地の語とその地を植民地化した帝国の言語の融合・混合語)が生じにくかった理由ではないか、スペイン語がこうした役割を果たしたことが南米にガルシア=マルケスらのマジックリアリズムが生み出された土壌となったのではないか、と推察しています。身近なスペイン語ぺらぺら人間にきいてみたところ、たしかにスペイン語は非常に話やすい言語であるとのこと。

また著者は、「その言語特有のノリとか癖とか何らかの傾向」があり、これが語学で決定的に重要であるといいます。ここでいう言語のノリとは、文法、ことばの使い方、発音、口調、態度、会話の進め方等が含まれます。高野氏によれば、文法上の発音記号がわかっても実際に各言語でどのように発音をするかは多様であるし、実際の「ノリ」を含めて言語を学習することで、相手との意思疎通がスムーズになるそうです。「ノリ」は言語が先か、民族が先か、よくわかりませんが、なかなか興味ぶかい。

 

さてでは、平安京言語たるスペイン語において、「ノリ」はどうなってくるのか。言語に基づいて各地でノリが共有されるのか。それともスペイン語は共有していてもノリは違ってくるのか。

先ほどのスペイン語ぺらぺら人間にきいてみたところ、面白い話がきけました。

彼女は日系南米人の友人がたくさんいますが、そのうち第一世代は大人になってから日本に来た関係上、日本語が不得意です。そんな人々とは日本でもスペイン語で喋ることになるわけですが、そのスペイン語の会話の中に、日本語の語尾に入る「~~ね」という言い回しが混ざるんだそう。スペイン語では英語でいうright?やyou know にあたる言葉があり、それを文の合間に挟んだりするんだそうですが、彼女によればそれはどうにも使いづらい。やわらかい表現である日本語の「ね」よりも言葉が強く、頻繁に文の合間に挟むと変な感じがする。なので、「~~~~(スペイン語)ね」とスペイン語の最後に日本語の「ね」をつけるという自分からするとやや珍妙にみえる喋り方をしているそうなのです。ところが実はこれを日本に住む日系南米人(つまりスペイン語ネイティヴ)の人たちも使っているとのこと。高野氏の言葉を借りるなら、ともにスペイン語で喋りつつ、合間に日本語で「ね」と言いながら日本の「ノリ」を混ぜている、ということになりますね。話をききながら、平易な「平安京言語」たるスペイン語でも、現地(この場合は日本)の「ノリ」を征服しつくすことはないのだなぁ、と思ったのでした。

高野秀行氏ならではの人間味と鋭い洞察がミックスされた、いい本でした。

 

そのほかにこの間読んだ本は、

高野秀行『神に頼って走れ 自転車爆走日本南下旅日記』2008年

インド入国禁止になってしまった著者が、神頼みの名目で日本最南端まで自転車旅行。あふれる少年心と真剣さと。日本は神仏であふれかえっているなぁと改めて思いました。神仏に頼る、というのはいいものかもしれないとか思ってみたり。さわやかな読後感。高野秀行に外れなし。

 

ハメド・オマル・アブディン『わが盲想』2013年

盲目のスーダン人アブディンさんの半生記。文章のあちこちに挟まるスーダンジョーク。

 

川添愛『言語学バーリ・トゥード AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(2021年)

昨年のベストセラーの一冊。言語学者によるエッセイ集。その言葉が間違っているか正しいかを指摘するのではなく、現象を分析する(楽しむ?)のが著者の理論言語学の立場で、本書では言語学の概念を使って著者が身近な素材であーだこーだと考えます。文法からするとかなりぶっ飛んでいるコマーシャルの文言、洋画の不思議な翻訳など。言語学についての知識は皆無ですが、なかなか楽しい。註で紹介されているいろんな文献や著者のほかの著作も読んでみたくなりました。

 

丸山ゴンザレス『世界ヤバすぎ!危険地帯の歩き方』2020年

クレイジージャーニー丸山ゴンザレスの著作。選んだ本がよくなかった気がする。YouTube見てる方が面白い。もう1,2冊くらいは読んでみるつもりです。