ネオたぬ記

読んだ本の感想。見聞きしたこと。

うだうだメモ

もう10年ほど前か。フェミニストを称する女性の後輩に「男女差別に反対していて、フェアなのが大事とおもってるならフェミニストっすよ」みたいなことを言われ、「ほほぉ。なら自分も一応フェミニスト?」みたいなことを考えていたことがあります。

今では、残念ながら自分はフェミニストではないのだろうなと考えるに至っています。男女差別はよくない、フェアなのが大事、というのは今でも全く正しいと思うのですが、なにしろフェミニストを自称する人々と定期的に意見が衝突する。もしそこでほかの人が、「いや、フェミニズム的見解であれば~~と考えるべきだ」と発言するのであれば、「なるほど、自分は××は受け入れられないが〇〇なタイプのフェミニズムになら得心する、近づけるのかもしれない」と考えるところなのでしょうが、しかしながら自分が身近に経験した対立・混乱でそのようなパターンにほとんど遭遇したことがない。多くの場合はフェミニズムを掲げる人が相手(男性)に男性中心主義、男女差別であると非難を向けるか、また別の人はその人と距離をすこしとって沈黙をし、非難された男性はその言葉が身体に突き刺さったまましかし無言で自分たちなりに考えた解決策を遂行する。経験したケースでは男性を批難する論理は自分にとってなかなか賛同しきれるものではなく、男性(たち)はそうするしかなかったのではないか、と思える。フェミニズムにのっとって「このように考えるべきである」とする説得力のある代案もどこからも聞こえてこない。問題の決着は双方傷だらけでなんとも後味が悪い。そこにあるのは大枠では加害と被害の関係であるにもかかわらず、自分はどうにも被害の側に立ちきれない。被害の側の声を全面的に尊重することがもしもフェミニズムであるならば、自分は残念ながらいまフェミニストと名乗ってはいかんのでしょう。被害者の声や要望に寄り添えばいいってもんじゃないだろう、というのが諸々の事案をみていての正直な感想なのです。基本的には、「そこに問題があるかどうか」よりも「ではどう解決していくか」、「さしあたりの着地点はなにか」で大きく対立する。直ちに全面的に問題を克服しようとしていないのであり、それは妥協ではないかと問われるなら、まぁその通りかな?という気持ちもあるので反論はできない。大事だとおもうたくさんのものの一つをそれだけとりあげて自らのイムズであるとはたしかに呼ぶべきではない気もする。

 

とかいいながらどうにか自分の納得できる考え方はないものかと、あまりない時間と体力の中でも勉強をできないかと思っているのですが。修復的司法への自分なりの関心もこれとかかわっているような気がします。女性への被害・抑圧の深刻さの学びは、正直なところ、懸命に勉強したところで現実に今起きている衝突の解決や自分のもつ違和感の解決につながるとは思えません。さて、どんな勉強をすればよいのか。納得できる考え方がみつかるのか、または自分の考えを変えることができるのか。

自分は、基本的にはフェミニズムは(長く険しい道とはいえ)不可逆のいきおいのもとに大きく力を強め歩みを進めている真っ最中であり、実際には大きな影響力を既に有していると思っているのですが、当人たちがあまりそうは考えていないということにすれ違いの源の一つはありそうな気がしています。農民運動然り労働運動然り、もちろん市民運動も、時代の中で急成長をした人々はどこかで集団を作り、自分たちを群として洗練させていきます。バリエーションは様々ですが、自治・規律の機能を備え、他者とのかかわりあい方をみにつけていきます。我が学部時代の師匠がこだわったと思われるテーマ。集団・自治の意義。

では、はたして。