ネオたぬ記

読んだ本の感想。見聞きしたこと。

金佑龍 Verse book

何年か前にわりと近所でソロライブをやってくれていたので行きました。

今日、いい日差しの中をすこし散歩していたら、たまたまこの曲がプレイヤーから流れました。いい散歩になった。

youtu.be

 

もっといろんな音のど真ん中で歌っても、存在感を余裕で発揮できそうな歌声です。静かな曲も好きですが。

またいつかライブにふらっと行けたらなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

被害と加害の考え方 読んだ:山田由紀子/AKIRA『つぐなうために 受刑者が見た修復的司法の真実と光』

修復的司法とはなにか

 数年前から「修復的司法Restoractive Justice」という刑事司法の考え方に興味をもっています。諸々のニュースや、この数年間自分のかなり身近で起きた諸事件や人間関係上のトラブルを前にして被害・加害、罪・罰といった問題について、どうにかもう少し納得のできる考え方、解決を考えられないかという思いが深くなり、その過程で「修復的司法」が気になっていた、という感じです。かならずしも法律上の刑罰に関心を限定しているわけではありませんが、なにしろ興味を持ったっきりまともに「修復的司法」について学べてこなかったので、今後少し意識的に勉強していきたいと思っています。

 最初にさっと読めそうなものを探して、こんな本を読んでみました。

山田由紀子/AKIRA『つぐなうために 受刑者が見た修復的司法の真実と光』新科学出版社、2020年

 NPO法人「対話の会」という少年事件を中心に修復的司法を実践しているNPO団体があり、山田氏はそこの理事長を務めている弁護士です。被害者と加害者を直接会わせて対話をさせるときくと、素人としてはかなりぎょっとします。が、本書のメインパートではないので詳細は割愛しますが、「対話」を成立させるまでには繰り返しの面接、特に被害側への慎重を期した接触、対話のルールの設定、必ずしも被害者加害者間での「合意」を目指さないなど、かなり細やかで慎重な準備がされていることが本書の終わりで解説されています。

 

 山田氏は、修復的司法について以下のように説明しています。

 修復的司法の特徴を、既存の刑事司法と比較すると、既存の刑事司法が〈犯罪を国家の決めた法を犯すことととらえ、国家が犯罪をおかした人を処罰するのが刑事裁判、つまり犯罪に対して国家対被告人という関係で対応するもの〉であるのに対して、修復的司法は〈犯罪を地域社会の中に起きた害悪ととらえ、この害悪に対して被害者・加害者・地域の人々が自分たちの力で埋め合わせするという対応をするもの〉です。イメージとしては、地域の通学路や生活道路に大きな陥没ができてしまったとき、その工事を国や自治体任せにするのではなく、加害者・被害者・地域の人々が自分たちの安心・安全な生活を回復するために協力して埋め合わせようとするのが修復的司法と言ってよいでしょう」(83頁)

 通常の刑事司法ではルール(法)を犯した人物に対する国家による刑罰が制度の中心に位置するけれども、修復的司法の立場からすれば、それは事件によって実際に生じた「害」の修復にはつながりません。既存の刑事司法は、被害者の受けた被害を回復させるものでもないし、またそもそも加害者に自らが犯したことの意味・責任を認識させ、反省させる(=更生させる)システムでもない、と。これは、特に加害者については理解できます。刑務所にはいることになったとしても、「不自由だ」という認識から「こんな不自由な目にあうなら今後は犯罪をしないようにしよう」までは距離がありますし、そこから「被害者も辛い思いをしただろうな」「加害者として申し訳ない」と思うにはさらに一層の距離があります。

 こうした生じてしまった害の修復(被害者の回復、加害者の主体的な反省)を実現するためには既存の刑事司法ではなく、修復的司法によらなければならない、というのがこの立場の人々の主張です。山田氏の立場――これは修復的司法のうちでも、「純粋論者purist」とよばれる立場の考え方のようです――からすると、生じた害の修復のためには、特定の犯罪の利害関係者(被害者、加害者、地域社会)が直接面談し、かれら自ら解決策を決定していくことが重要になります。

 こうした考え方は、国家的・自由主義的な解決ではなく、社会的・共同体的な解決を目指している印象をもちます。そしてまたこうした発想は現代日本ではあまり支持を受けないだろうな、とも同時に思います。批判ではなく、日本社会の現状・思想的雰囲気・被害者支援の弱さからして、です。

 

受刑者はなぜ謝罪をしたいと思ったか

 本書は修復的司法の理論を説明するものでも、論争をしているものでもありません。山田氏に届けられた刑務所服役中であった受刑者のAKIRA氏の手紙、そこからはじまった往復書簡の記録です。強盗、窃盗等で懲役17年の判決を受けたAKIRA氏は、長い刑務所生活の中で自らの加害を認識し、被害者に謝罪と弁償を行い、そして8年目に「対話の会」理事長の山田氏に修復的司法について教えてほしいと連絡をとるに至り、書簡のやり取りが始まります。

 

 手紙をうけとった山田氏からAKIRA氏に投げかけられた最初の問いは以下のものです。

「AKIRAさんは、逮捕され懲役17年の判決を受け刑務所で5年の受刑生活を送っても、奈良少年刑務所に行くまで、真に犯した罪の重さを認識して自分自身と向き合い被害者のことを思いやることができなかったそうですが、それはどうしてなのでしょう。一般の人や国の制度は、逮捕や刑事裁判での審理、重い判決、厳しい受刑生活などが犯罪者に反省をもたらすと信じていると思うのですが」(15頁)

 そしてAKIRA氏は自身が逮捕された時の想い、被害者に謝罪をしたいと思うにいたる過程、そして自身が人生の中での強盗や窃盗を実行し、正当化するにいたった経緯を語ります。本書の大部分は、山田氏の質問に促された、AKIRA氏の歩みと反省の記録です。そして山田氏はそこでのAKIRA氏の経験や模索に、「修復的司法への旅路」を見出したわけです。それは、刑罰や不自由とは異なるところで生じた、加害者による能動的な反省とその実践でした。

 書簡の中では、高卒資格を得るために通信制過程受講生となり、奈良少年刑務所およびそこでうけた高校教育が大きな転機になったことが語られています。

 刑務所内での更生プログラムTherapeutic Community回復共同体の様子を記録した、坂上香『プリズン・サークル』(2020年公開)というドキュメンタリー映画があります。とてもよい作品だと思いますが、この中でインタビュアーと色々な話をした受刑者が、最後にインタビュアーと握手をしたいと刑務官に許可を求めたところ、あっさりと断られるというシーンがあります。AKIRA氏が自身が反省に至る過程で受刑者高校生6人のためだけに開かれた卒業式を以下のように回想している箇所で、『プリズン・サークル』のそのシーンを思い出しました。

 「…教員の方は、中には涙を流し、あるいは握手や抱擁、激励の言葉をもって祝福してくださり、私自身も目頭が熱くなり、高校を卒業した喜び以上に、自己肯定感の高まりを覚え、人の優しさ・温もりが私を更生へと導いてくれました」(28頁)

『プリズン・サークル』でも「処罰から回復へ」がそのメインメッセージとなっていますが、人が主体的に反省をし他者への加害を認識するのは、厳しい処罰や不自由を与えられたときではない、ということがAKIRA氏の回顧では語られています。AKIRA氏が、「自らの犯した罪に対する責任」を自覚することのない生き方として「受動的な生活」(29頁)という表現をしているのは象徴的です。

 

加害者像を考える

 山田氏は、本書を出版しようとおもった理由の一つとして、ある法学部での授業の経験をあげています。学生200人ほどの講義で、「受刑中の加害者は被害者への謝罪や償いをしたいと思っていると思うか」と質問したところ、圧倒的多数の学生が「思っていないと思う」と答えたという経験で、山田氏はこの反応は社会一般の反応を象徴するものであるとしています。しかし、AKIRA氏がそうであるように、また彼が刑務所であった人々もそうであるように、この加害者像は少なくとも全員には当てはまりません。また『プリズン・サークル』が映し出したように、加害者であることはその人間の一側面を我々の社会が強く照らしているにすぎません。

 現在の刑事司法、そして加害と被害のあり方のベースにあるのは、「加害者は謝罪や反省などしていないし今後もしない」という確信と、被害者のうけた傷は刑罰(厳罰)という形以外では基本的に表現できない、という大前提だと思います。生じた「害」の修復などどうせできないのだから、、という感じでしょうか。被害者への向き合い方として、また加害者への向き合い方として、これはどこまで正しいのか。考えの整理はまだつきませんがもう少し考えていきたい問題です。

 

 

最後に少し脱線(?)

 全ての事例にあてはまるわけではありませんが、いくつか見てきた被害の問題で深刻だなと思ったのは、ある具体的な事件が起きた際に、被害者が負った傷が必ずしもその瞬間に初めてできた傷ではないように見えることです。これはいうまでもなく加害者が加害行為をなしたということを免罪するわけではありません。さりとてそうした事例においては、被害者が負った痛み、傷の深刻さは実際のところその加害者のみによって生じたわけではない、というように自分からは見えました。いわば、古傷を開いてしまったことによる積み重なった痛みです。被害者がその人生の中で負わされてきた傷の問題です。そして端的に言ってしまうと、被害者が過去に負った傷の分まで加害者が補償をすることはできず、より長期的な「修復」、「回復」は加害者の罪の重さとは別の論点なのではないか、という気がしています。むしろ、本書の言葉を借りるなら、生じた「害」の利害関係者としては、狭義の加害者以上に地域社会・共同体の比重と責任が重くなるのではないかと。これは本書とは直接は無関係な上に、いまだどう考えればよいのかわかってないことなのですが。

 

 本書は修復的司法を加害者の更生・謝罪にクローズアップしてその具体例を描いたものです。被害者にとっての修復的司法の意味・説得力、それから修復的司法が法律上はどのように反映されるべきなのかなど、これからさらに勉強を続けていければと思っています。

 

 

ジェームズ・ブラッドワース『アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した』。それからケン・ローチ『家族を想うとき』

 出たときにわりとすぐ読んだ本ですが、ひさしぶりに。

アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した | ジェームズ・ブラッドワース, 濱野大道 |本 | 通販 | Amazon

 同じ2019年に「ゼロ時間契約」(あらかじめ定められた労働時間が0時間の契約=安定した給料が保証されていない)のトラック運転手とその家族をテーマにしたケン・ローチの映画『家族を想うとき』が公開されました。この映画も本書と同様、実際には自由など全く存在しないにもかかわらず「個人事業主」的形式で働く労働者とその家族の悲哀を扱っています。

 

労働者と個人事業主

 本書では扱われているのは、現代イギリスのアマゾンの倉庫、訪問介護、コールセンター、ウーバーで行われている過酷な働き方です。

 これらの働き方の新しさ、そしてその最大の特徴は、働く人々から「労働者」という形態とそれにもとづく権利が奪われていることにあります。本書では、経営側が労働者を「個人事業主」として徹底して位置づけることで利益をあげようとする様が克明に描かれています。それらの労働者はアマゾンでは「アソシエイト」、ウーバーでは「パートナー」等、労使関係を否定した呼び名で呼ばれています。個人事業主と呼ばれながら、会社に強烈に管理され、酷使される労働者の描写は圧巻です。特にウーバーにおける強烈な(事実上の)労務管理と、この業種に入ってくる人々が求めていた「自由な働き方」のすさまじい落差の描写は印象的でした。

ブラッドワースは言います。

「私がこの仕事を通してわかったのは、様々な面において「自営業」は言葉の錯覚でしかなく、現実とはほぼ乖離したものであるということだった」(276頁)。

また経営者たちが労働者自身が自営業者になることを望んでいるのだ、と弁明していることに対しては

「労働者の権利と柔軟な働き方が水と油であるという誤った考え方は、一部の企業から発信されたメッセージでもある」(311頁)、「実際のところ、大勢の臨時労働者が謳歌する自主性と特定の法的権利とのあいだに矛盾などほとんど存在しない」(313)。

と返しています。一部企業は現実には存在しない二項対立を煽っている、と。賃労働のもとで指揮命令をうける労働者がどこまで働き方の点で自由になりえるかという問題はあるにしても、本書で描かれているウーバーやアマゾンなどを題材に考えるならば、全面的にブラッドワースが正しいでしょう。労働者の権利を拡充していくことで、柔軟な働き方や自主性が位置づけられればよいだけの話です。

ちなみに「労働者自身がそういう働き方を求めているのだ」という一定真実を含めた働かせ方の問題点は、現代日本では個人事業主問題とともにシフト労働の問題でも出てきていると思います。

 

 移民と働き方

 これらの働き方がイギリス国内に成立するうえでは、従来の産業の衰退と移民が大きくかかわっています。例えばアマゾンの倉庫労働の例では、それがもともと炭坑があった町に新たな雇用を生むものと期待されて登場したこと、しかし労働の苛酷さ故にそこは事実上移民労働者たちの現場になったことが説明されています。

 また、日本よりも労使関係が強いはずのイギリスで、なぜ日本の非正規労働以上に見える過酷で無法な働き方が成立しているのかが少し気になったのですが、友人の意見では、むしろ労使関係が強かったが故ではないか、とのこと。つまり、イギリスの場合労働組合が強い力を持っていたため、法律を用いて最低限の労働環境を保護するというより、労働組合が資本側との交渉によって実際に(法律によらずに)規制を実現するというスタイルをとってきた。そのため、既存の労働組合の組織化がなされていない領域、追い付いていない領域である移民労働者・ギグエコノミー(個人事業主形式)の領域においては法的な規制・行政的な介入が急激に弱くなるのではないか、ということです。

巨大企業が底辺労働・法律外の労働を先進資本主義国の内部につくりだしている様子が本書からは見えてきます。

 

 

誇りの源としての仕事と『家族を想うとき』

本のはじめの方には以下のように書かれています。

「仕事について書かれた本は、必然的に階級についての本になる」(11頁)。「結局のところ、これは21世紀の労働者階級の生活についての本だ。多くの人にとって、かつては誇りの源だった“仕事”は、尊厳と人間性を奪おうとする容赦のない攻撃に変わった。本書は、その変化を記録しようとする試みである」(15頁)。

ケン・ローチ『家族を想うとき』が公開されたあと、映画に対して奇妙な批評をしばしば目にしました。主人公家族のなかでのリッキー(夫・父)の愚かさを指摘するものです。曰く、無理して仕事用の自分の車など買わず、地道に介護職などの労働者として働いていればこんな目にあわなかったのではないか、と。ほかにも、家族の中でリッキーのみに「古臭さ」を見出す感想を読んだことがあります。はたして、リッキーは愚か者でしょうか。

自分がこの映画で一番象徴的に打ち出されていたと思うシーンは、リッキーが娘を助手席に乗せて仕事に向かい個人事業主として働く喜びを感じていた場面、そしてその働き方が会社によってあまりにあっさりと否定された場面です。幸福な時間があっさりと現実の労働制度によって否定されます。アビー(妻・母)もまた仕事の尊厳をその現実によって奪われるわけですが、どちらも本書がいうところの「尊厳と人間性」がその労働からむしり取られる様をつきつけています。リッキーにマッチョさを見出すことはできるでしょうが、あまり本質的な論点だとは思いません。個人事業主という働き方に込められたものを考えるとき、私たちはそれを自分に無関係な欲望と切り離し、自分のトラックを買ったリッキーを非合理的と嗤うことができるでしょうか。労働者の法的権利の拡充はリッキーのような労働者の夢も含めてなされるべきことであると思います。

 

 

民主主義のためのコスト   読んだ:瀬畑源『公文書管理と民主主義』

なかなかまとまった量の文章を読めない。

ので、読めるものから。

 

瀬畑源『公文書管理と民主主義 なぜ公文書は残されなければならないのか』(2019年)

公文書管理と民主主義: なぜ,公文書は残されなければならないのか (岩波ブックレット) | 源, 瀬畑 |本 | 通販 | Amazon

日本の公文書管理、情報公開制度問題で発信を続けている歴史学者による講演録。単著、共著はほかにもあるが、講演録を手軽に読めるのはとてもありがたい。定価600円もしない本書も含め、ブックレットや新書の類は日本の宝だと思います。

4~5年前にニュースを騒がせた森友学園問題とイラク日報問題を入口に、日本の公文書管理の問題、課題を扱っています。

 

ダメな官僚がいたから問題が起きたのか?

この本のいいところは視野の広さ。それぞれの事案でたまたま悪い政治家やひどく怠惰な一官僚がいたという話ではないのだ、ということが強調されています。

強調されているのは官僚機構とは何なのかということ。情報公開請求に対応する官僚側の手間や、そもそも官僚は情報を独占したがる傾向をもつものであることが指摘されています。個人ではなく、制度・組織の問題であると。2つの事件の後始末のダメさ加減には政権固有のものがあるにしても、公文書管理の杜撰さ自体は、主として日本における官僚機構(のクセ)を制御する仕組みの弱さの問題として本書では把握されています。官僚機構とはなにか、を理解したうえでそれを制御する仕組みを考えろ、というわけです。またなぜ特に日本では公文書管理が重視されてこなかったのかについても、明治以来の日本の国家機構の歴史的経緯から説明しています。

本書では情報公開法や公文書管理法の意義と改善点の指摘、公文書管理のための新たな機構の必要などの具体的な提案もされていますが、話のスジがはっきりしているため大変わかりやすかったです。

 

民主主義のコスト

世間を騒がせたイラク日報問題、森友学園問題から約5年。わずか5年でこれらの事件、日本の行政・政治上の問題点はおそらく多くの人の脳裏から消えつつあるでしょう。というか僕自身ももはや詳細は思い出せません。

多くの人が事件を忘れていくことそれ自体、公文書管理と情報公開制度の重要性を示すものでしょう。官僚や政治家の善意に期待してもいけないように、一生活者の記憶力や注意力にも期待しすぎてはいけません。情報公開請求それ自体は、もしかしたら一部の根気強い市民や専門家によってしか使いこなせないかもしれません。しかしだからこそ、それらの人々の取り組みが実るように、法整備や機構整備が必要です。その有無が民主主義を左右するからです。

民主主義はコストがかかります。公文書管理を担うたくさんの公務員を雇うお金、また情報公開制度等を活用するための時間・お金、話し合う時間。民主主義にはコストがかかることを認めることが大前提ですが、他方で可能な限り生活者の日常的なコストを下げるための法整備、環境整備も必要です。そして実は、市民運動、学者、メディア等が自由に活動できるための環境づくりは大変コストパフォーマンスのよい方法なのではないかと思ったりするわけです。

 

 

読書力が落ちてるいまだと、ブックレットはとてもよいです。いろいろ探してみようかな。

読んだ:るしこ『ちっちゃなやさしさに、今日も救われてます』

なごんだ。

www.amazon.co.jp

 

読んでてほっとする漫画が読みたかったので買ってみた。

 

子どもはまだいませんが、自分も仕事中などにちびっこと目が合うとついつい手を振ってみるタイプです。体のでかい成人男性としてはなかなかちびっこやお母さんに直接話しかけるのは気後れしてしまいますが、嫌がられていないなら嬉しいな。

このハードルを越えたところに、マンガでも出てくるばーばたちがいるわけですね。自分の母もこれです。はるか高み。

 

ちびっこやお母さんをびびらせないように今後もひっそり手を振る。

 

 

OECDが労働組合の重要さを訴えるというお話

 

OECDが最賃引き上げと、そのための団体交渉の重要性を訴える。

OECD、団体交渉の復活呼びかけ 賃金目減りに対抗(ロイター) - Yahoo!ニュース

経済協力開発機構OECD)は、最低賃金を引き上げ、団体交渉への支持を獲得することが、インフレスパイラル(連鎖)による賃金の目減りを抑えるのに役立つとの見解を示した。

2022年9月12日のロイターの記事。

労組どころかOECDも労組と最賃引き上げの重要性を訴える。

趣旨としては、まともに経済を回すためには労働者側にまともな交渉力をという話ですが、そのためにいわれていることは労働組合がなければ労働者は経営者の交渉相手たりえませんよ、という当たり前のお話です。

経済格差の拡大に対するOECDによる懸念はほかにも2014年の『所得格差の動向と経済成長への影響』にも。

「富裕層と貧困層の格差は今や大半のOECD諸国において過去30年間で最も大きくなっている。……このような所得格差の趨勢的な拡大は、経済成長を大幅に抑制している。」

格差拡大の弊害、最賃の低さの問題はテレビニュース、ワイドショーレベルでも見るようになってきていますが、この解決を労働組合をメインに論じるものはほとんど見ないような印象。OECDは「企業と労働者の交渉力のバランスを調整する必要」がある、と。

 

労働組合法第1条

この法律は、労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことを促進することにより労働者の地位を向上させること、……その他の団体交渉を行うために自主的に労働組合を組織し、団結することを擁護すること並びに使用者と労働者との関係を規制する労働協約を締結するための団体交渉をすること及びその手続を助成することを目的とする。

労働組合による集団的な交渉が目指されて、そしてその法的保障が認められて、ようやく労働者は使用者と「対等」だよ、と法律は言っています。この数十年で(もとから弱かった)労組が弱体化した今こそ、またとりわけこの法律のような認識が弱い日本だからこそ、この文章は繰り返し確認されるべきと思います。

 最低賃金の引上げ、さらには集団的交渉の担い手の再建は国・政治の側にとっても今よりさらに重要な課題になっていくのではないでしょうか。かれらにとってはさしあたり人道的な観点でないのはもちろん、「治安」の問題ですらなくなく、「経済」の問題として。最賃はいくらがいいのか?それに伴うほかの諸制度の変更は?誰目線か次第でいろいろな対立が考えられますが、日本をみている限りまだそれ以前の状況のように思います。

 もうすこし経済の勉強もちゃんとしてみたい。