ネオたぬ記

読んだ本の感想。見聞きしたこと。

エッセイを読み漁る

さらっと読めそうなものを探して、なぜか小説ではなくエッセイをこの間適当に読みました。

読んだものは、

井上ひさし『この人から受け継ぐもの』岩波現代文庫、2019年

井上ひさし『ひと・ヒト・人 井上ひさしベスト・エッセイ 続』ちくま文庫、2020年

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』文春文庫、2020年

沢木耕太郎深夜特急5 トルコ・ギリシャ・地中海』新潮文庫、1994年

さくらももこ『ももこの世界あっちこっちめぐり』集英社文庫、2021年

 

図書館で目にとまったもの、ブックオフで110円で売っていたものを適当に集めた結果変なラインナップになりました。上から順に面白かったですが、井上ひさし若林正恭はそれぞれ違う方向に特に面白かったです。さくらももこ以外は面白かったといってもいいのかもしれない。

深夜特急』は、ブックオフで5巻のみが売られていたためになぜかそこだけ読むというひどい読み方に。今度は初めから読んでみたい、と思わせてくれる本ではありました。基本的に紀行文は読んでて楽しいです。

 

 井上ひさしのエッセイはこれまでちゃんと読んだことがなかったのですが、言っている内容や圧倒的な知識量以前に、文章の正確さ(?)に驚かされました。これより文字が多くてもくどくなり、少なくても伝わらない。ほかによりよい表現が見つからない。そんな感じでしょうか。とにかく言葉で表現する力がすごい。

 

 若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』は傑作でした。表現力はもとより、本人の現在の生き様と文体の見事な一体感。いきなり大ヒットを飛ばして世に出てきたミュージシャンを見たときのように、著者はこのような作品を今後も書き続けられるのか?と素人ながら思わされました(誉め言葉)。

 著者が本書で繰り返し使う「新自由主義」という言葉は、著者が家庭教師から教わった基本的な理解から少し離れて、著者自身の人生によって血肉化されています。著者にとって新自由主義とは、とにもかくにも大量の人の目、競争、それらにもとづく不自由の問題であると思われます。いろいろツッコミようはあるかもしれませんが、思想が人を行動に駆り立てるというのはこういうことですね。

 「新自由主義」に自身の不自由の原因を見出しキューバに思いをはせ、キューバで各所をめぐった著者は、しかし実際に滞在するなかでその問題点についてもクソ真面目に考え続けます。キューバ社会主義もどうやら諸手を挙げて褒められるようなものではないようだ、と。著者は「キューバの一番のおすすめの観光名所」として、革命博物館でもきれいなビーチでもなく「マレコン通り沿いの人々の顔」を挙げることで旅を終えます。本書は紀行文であり、その思索の過程です。

 キューバを通して新自由主義下の自分の生活の中にもamistad(血が通った関係)を見出していく著者ですが、本書を読みながら直前に読んでいた井上ひさしのエッセイの文章をいくつか思い起こしました。

そういった生き方の転換は、自分のいま立っている場所でやらなければだめなのです(「ユートピアを求めて 宮沢賢治の歩んだ道」『この人から受け継ぐもの』62頁)

 

万人に通じ合う大切な感情が共有できない、知っていながら知らんぷりをして結局は自己溺愛の中へ逃げ込むしかない……そういった人たちの毎日が少しでもいい方へ変わってくれたらと、喜劇作者は私かに祈り始める。チェーホフもまた、この道を歩いていた(「笑劇・喜劇という方法――私のチェーホフ――」『この人から受け継ぐもの』133頁)

 

私としては、……前回書いたように、万人に通じ合う大切な人間の感情をたがいに共有しあって、他人の不幸を知っていながら知らんぷりをしないと説いたチェーホフを信じ、ユートピアとは別の場所のことではなく自分がいまいる場所のこと、そこをできるだけいいところにするしか、よりよく生きる方法はないということを信じるしかない」(「笑劇・喜劇という方法――私のチェーホフ――」『この人から受け継ぐもの』138頁)

若林正恭の場合、「サル山と資本主義の格差と分断から自由になれる隠しコマンド」として、自分にとっては経済の論理を越えた「血の通った関係と没頭」がそれであったとしています(330頁)。井上ひさしの場合はより絞り込んで、演劇による「時間のユートピア」を掲げます。制度化されるような、永続的なユートピアは無理かもしれないし、またはそもそも望ましいことですらないかもしれない。しかし、一時的に生じる「時を忘れる」ようなユートピアは作りだせるし、それはその場は失われたあとにも「かけら」を残せるのではないか、というわけです。井上は自分は宮沢賢治の志をひきながら、「演劇」を通して「時間のユートピア」をつくろうとしているのだ、と述べています。

 

そうか、

キューバに行ったのではなく、

東京に色を与えに行ったのか。

だけど、この街はまたすぐ灰色になる。

そしたらまた、網膜に色を映しに行かなければ僕は色を失ってしまう(『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』209頁)。

 

 生まれた時代、来歴、性格も異なる著者に何かしら共鳴するものを(勝手に)見出すというのは、乱読、流し読みの楽しさの一つだと思います。

 

『表参道~』の終盤は、自分の周りでこの間起きたことが重なって少し涙が。

 元来速読がひどく苦手なのですが、適当に読み漁る楽しさというのはやはりあるわけで、適当に読んでいく量も増やしていけたらなと思います。小説と並行して、エッセイ、紀行文で面白そうなものを探していきたいです。