ネオたぬ記

読んだ本の感想。見聞きしたこと。

シャチが好き

昔から大きな生き物が好きでして。ゾウ、クジラ、今はいないけど恐竜。でっかい生き物が動いてるだけで感動します。

で、そんな中でもシャチはかなり好きです。大きくて賢くて機能的で。鴨川シーワールドのシャチなんか、もう何時間でもみてられそうです。沖縄の水族館でみるジンベイザメも好きですがシャチはあれとはまた違うジャンルの違う、大きな哺乳類の迫力です。

 

動物関連の書籍は小学生くらいからわりと好きで読んでいるのですが、社会性の強い動物の本は読んでいて特に面白い。

そんなわけで村山司『シャチ学』も楽しく読みました。著者はイルカの研究者のようで、シャチの親戚であるイルカ(ともにハクジラ類)が比較対象として論じられていること、アイヌや近代水族館など人とのかかわりが描かれている点が特徴的だと思います。

 

シャチについては少しは知ってるつもりでしたが、改めて本でまとめて学ぶととても面白い。

現在、ひとくくりにされているシャチには様々な形態、食性、行動などの異なりがあることが明らかにされています。例えば北東太平洋海域のシャチは、

レジデント=魚食性で平均10体以上のグループ(ポッド)を形成して定住。

トランジェント=特定の生息域を持たず、数個体の小集団をつくってイルカ類、クジラ類、アザラシ類などを狙う。

オフショア=サメなどを主に食し、50~100個体程度の群れをつくる。

この3つに分類されます。しかも、これらは見た目も微妙にことなっているほか、鳴き声の出し方もちがったりするそうです。多くの個体が集まるレジデントは頻繁に鳴き声を発してコミュニケーションをとるのに対し、トランジェントはあまり鳴き声を発さないなどの違いも。

またシャチはコールとよばれる「方言」のようなものがあり、これは各ポッド(家族)の中で共有され、母から子へ代々伝わっていきます。血縁関係が近いほどコールは共有され、ポッドが集まる「クラン」ではコールは共有されるが、異なるクランの間では音は共有されていないそうです。ほんとに言語って感じですね。

 

また、シャチといえばその高い知能に基づいた様々な狩りが有名で、本書でも様々な狩りが紹介されていますが、知らなかった話をひとつ。

アルゼンチンのバルデス半島のシャチは浜辺にいるオタリア(アシカの仲間)に海の中から襲いかかる狩りを行います。海の生き物であるシャチは浜辺に乗り上げてしまって、海に戻れなくなったりしないのか?と当然思うわけですが、なんと驚くことに、オタリアを狩る前に数キロ離れた浜辺でシャチがこの狩りの練習をしているらしいのです。オタリアもいない浜辺で干潮時に浜に乗り上げ、そして海へ戻る。シャチの子どもに対しては浜辺に押し上げて戻る練習をさせているそうです。干潮時に行っていることについては、著者は万が一座礁した場合に備えて、潮が満ちれば海へ戻れることを計算しているのではないか、と述べています。「特訓」って感じです。また、かつてこの地域にいた兄弟のシャチは、一匹が浜辺に奇襲をしかけ、もう一匹が海に逃げてきたオタリアを待ち構えて襲うという分業をおこなっていたとか。

 

おそろしく知的な生き物です。ちなみに鴨川シーワールドのシャチを見たときに印象的だったのは、シャチがパフォーマンスを見せた後、その都度ご褒美のえさをもらうのではなく、何回かパフォーマンスした後にまとめて魚をもらっていたこと(同じ施設のイルカはもっとこまめにえさを与えられていた)、また一通り終わってから飼育員たちに長時間頭をなでられていたことです。

人の言葉とか理解してそう。

 

 

 

 

読んだということだけでも記録に残す

ブログを放置していましたが、いろいろ読んではいました。

余裕のある時には読書とは違う勉強もちょこちょこと。いろいろ考えさせられた本も多かったですが、あまりちゃんとノートには残せず。せめて、読んだよ、という事実くらいは記録につけておこうではないかと改めて思いました。おおむね、上からよかった順に。

 

カズオ・イシグロ日の名残り

この数か月で読んだ本のうちでは、最も今の自分にささりまくった。いま読んでよかった。

「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい」

 

高野秀行『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア

高野秀行のすさまじい馬力が結実した著作。3つの「国(?)」のルポルタージュ。「氏族」を基礎にした、現代の日本からは想像のつかないルール、秩序の在り方。戦国武将に例えながらの地域の政治や紛争の説明もわかりやすい。

 

東野圭吾『ナミヤ雑貨店の奇跡』

だいぶ好き。明るくなれる。人間、人に頼らなきゃ生きていけないけど、頼られるのも大事なことです。

 

村田紗耶香『コンビニ人間

コンビニで働くときに「人間」になれた主人公。面白かった。文章も面白い。一度は読むべき。他の人と感想を話し合いたくなる。

 

国立がん研究センター研究所編『「がん」はなぜできるのか そのメカニズムからゲノム医療まで』

一番信頼できる、かつ読みやすい「がん」についての本の一つではないか。とはいえ、よみながら自分の学校レベルでの「生物」についての基礎知識のなさ・忘却ぶりを反省させられた。「がん制圧は容易ではありませんが、従来の学問的な枠組みを超えた取り組みを続けていけば、近い将来、必ずやブレークスルーが生まれるはずです」。医学の発展はすごい。

 

今野晴貴ストライキ2.0 ブラック企業と闘う武器』

ストライキの再評価と、現代の新たなストライキの在り方について。現状と将来の展望の区別が大雑把な感じもするが、それもまた味。面白かった。ストライキを「過激」とかおもってるうちは日本には未来がない。議論に賛同しつつ、いろいろ埋めなくてはいけない隙間についても考えた。

 

井上ひさし『ブンとフン』

読んだのは結構前のはずなのに、なんかちょいちょい思い出す。作家の想像力・妄想力よ。

 

高野秀行イスラム飲酒紀行』

イスラム圏のあちこちで酒盛りを楽しんだ筆者の記録。イスラムでは禁止されているはずの酒がどう飲まれているか。それを通じてこれらの地域の文化の在り方や振る舞いがいろいろ見えてきます。ただ、面白いけど高野作品のなかではやや散漫な印象。

 

小野寺史宜『ひと』

気持ちよい読後感。

 

伊坂幸太郎『AXアックス』

面白かった!ほかのもいろいろ読もう!と読んだあと思ったはずなのに、どう面白かったのかが既に思い出せなくなっているというひどい感想。でもほかの作品もちょいちょい読みます。

 

森まゆみ『京都不案内』

先輩からのいただきもの。京都は深い。しかし、飲食店の話に関心がいってしまう自分はよい読者ではない気がする。鼻につくのは自分のせいかもしれない。

 

日本経済新聞社『免疫革命 がんが消える日』

この間のがん治療の革新の一つ、免疫チェックポイント阻害剤について。ほかの免疫療法との区別の説明が大雑把なことなんかがきになったりはしつつ、勉強になった。自分の周りでは医療について関心の強い人は多いけれども、財政や薬の開発の話はほとんど議論にあがらない。あげにくいのはわかるが、ちゃんと考えておかなければならないと思う。

 

姉崎等、片山龍峯『クマにあったらどうするか』

アイヌ民族最後の猟師へのインタビュー。面白い話がたくさん。他方、インタビューで話が出ていても、脳内でうまいことイメージがうかばないエピソードも多数。要補助線。もしくは図解。

 

前野ウルド浩太郎『ウルド昆虫記 バッタを倒しにアフリカへ』

面白い、が、ブログ感。むしろ、著者が全力でバッタの話してくれる本を読みたい。

 

伊吹有喜『カンパニー』

都合がよく話が進むエンタメの楽しさ。

 

森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』

長い。

 

読んだことを忘れている本もありそうですが、そこそこ読みました。医学系をこの間結構勉強しましたがそちらは割愛。

読みたい本が山のようにあるけれど、遅読はそんなに早くは治りません。

小説やルポルタージュの合間で、すこし政策とか労働問題とかのお勉強もしてみようかなとか思う今日この頃です。

 

 

 

 

年末読書

あわただしかった一年がようやく終わります。

 

これまで忙しいから、と読まずにいたいろんな本に目を通せたのはとてもいい経験でした。普段アンテナはってないとそもそも情報が入ってこないですし。いまは読みたい本が大量にあります。急ぐわけではないから、極力図書館を利用して読んでいこうと思います。年末に読んだのは好きな著者2人の本でした。

 

高野秀行『怪魚ウモッカ格闘記 インドへの道』2007年

結論を含めて要約すると、「探検がしたくてしたくてしょうがなくなった高野秀行が、ネット上で話題になっていたインドの怪魚の情報に大興奮。探検の準備をして出発するも、とある事情でインドへの入国すらできずに帰国」という話です。怪魚を見つけられなかったどころか現地にすら到達できていないのですが、十分に面白い本でした。さすが高野秀行です。準備をするところからが探検なのです。第一発見者から話をきけないか?現地でコミュニケーションをとるために何語を学べばいいのか?現地の人々に(自分たちですら正確な姿かたちを理解していない)怪魚のことをどうやってたずねればいいのか?この魚は本当に存在するのか、するとしたらその発見には価値があるのか?ネット上の情報をもとに日本で著者がすすめる探検の準備から面白い。

ちなみに著者は、インド行きたさ(と手持無沙汰)で日本で神頼みの自転車旅行に出かけ、それも1冊の本にしています。『神に頼って走れ』ですが、こちらもいい作品。結局高野さんの作品は何をしてても面白いんだよなぁとか思っちゃうわけで、実際自分は『異国トーキョー漂流記』が大好きなんですが、探検家高野秀行も正しく堪能すべく、次は『西南シルクロード…」あたりでも読もうかなとか思っています。

 

金城一紀『フライ、ダディ、フライ』2005年

 金城一紀ゾンビーズシリーズの2冊目。47歳妻子持ちサラリーマンのひと夏の物語。第1作にも出てくる朴舜臣が準主役でかっこいいのです。1冊目の『レヴォリューションNo3』よりなんなら好きかもしれません。著者のほかの作品にも共通する、支配・管理への闘いが描かれていますが、本作では「外」の敵以上に、半径1メートルの世界に自分を置き、様々な「限界」を受け入れてしまっている自分自身との闘いがおしだされています。肉体的なものを含めて強くなること、抵抗すること、他から与えられ自分で受け入れてしまった限界を超えること、自由になること。自由に飛び立つこと。著者の中ではこれらは一続きになっているように感じます。レヴォリューションNo.3の書き下ろし「異教徒たちの踊り」なんかとシリーズになっている意味がよくわかりました。

そういえば在日朝鮮人朝鮮学校生が「武闘派」であるというイメージは、自分の世代にはあまりないかもしれません。「朝鮮学校=スポーツが強い」みたいなイメージはありますが。著者の作品には、朴舜臣がその象徴となることで、「武闘派」の面がかなり強く出ています。『Go』もですね。自分の知り合った在日の友人たちは、積極的にであれ消極的にであれ、意識的にであれ無意識的にであれ、日々「闘い」の中にいることを感じさせる人たちが多かったのですが、やはり金城一紀が描いている闘い、抵抗のイメージとはちょっとぴったりきません。この辺りは世代差なんでしょうか。

ただ、今の自分にはなんともぴったりくる作品でした。主人公の47歳が、朴舜臣のもとでトレーニングをして生まれ変わっていく様。今年最後の1冊に読んで本当に良かった。強くなる、不安をねじ伏せる、限界を克服する、自由になる。

とりあえずジョギングとか始めちゃおうかな。

 

すごく大変な一年でしたが、いい一年でもあったことは今後も忘れないようにしたいと思います。

 

 

読んだ:高野秀行『語学の天才まで1億光年』その他

読書家?の父に高野秀行『異国トーキョー漂流記』を貸してよませたところ、大絶賛。そうでしょうそうでしょう。あれは自分も高野作品の中でもかなり好きな作品なのです。読むと明るい気持ちになれる。ヒューマニズムと批判精神。

 

そんな高野秀行ファンな自分、ようやく新刊の『語学の天才まで1億光年』を読めました。3軒本屋をめぐってようやく入手。面白かった。

本書はこれまでの著者の言語学習をまとめたものですが、著者が言語を「探検的活動の道具」という実践的な位置づけをしていることとかかわって、これは自然とこれまでの冒険、漂流の振り返りにもなっています。各地を旅する著者はその都度その地域の言語を学習していくのですが、その中にはメジャーな欧米圏の言語のほか、プロの教師がみつからない言語、さらには文字がない言語も含まれます。25以上の言語を学んできた著者が、それぞれの言語を学習するためにその都度どのような工夫をしてきたのか、また多くの言語を学びながら旅をする中で、言語を軸にどのようなことを考えたのか。言語学習の観点からまとめなおされた冒険記であると同時に、旅・人・言葉を愛する著者の考察がひかる作品です。

本書でとりあげられている言語学習と実践の経験は10言語以上におよびます。暗黒舞踏をしに日本に来たフランス人にフランス語を習ったり、文字のないリンガラ語にアルファベットをあてはめて学習してみたり、その覚えたばかりのリンガラ語を使って少数言語のボミタバ語を覚えてみたり、ビルマ麻薬王の部下のアジトでシャン語を習ったり。覚えたての言語を使ってさらに別の言語を学習するというやり方は何度も登場します。整備された語学学習のチャンスなどない中で、学習の機会をつかみとっていく著者。言語はあくまで現地で使うための道具であるという立場から、ネイティヴの生の言葉使いを創意工夫で学んでいきます。

 

言語の学習方法も面白いのですが、あちこちの地域をめぐる高野氏ならではの、言語を軸とした各地域の人々についての考察・発見がとにかく楽しい。

フランス語ーリンガラ語ー諸民族言語の三層構造を持つコンゴでの言語の使い分け、現地の言語を習得することによる人々との親密化と、他方で「言語内序列」に参入することによる序列低下。言語がそれぞれの社会でどのような機能を果たしているか、非常に面白く読めました。

 

たとえばスペイン語圏について。著者によれば南米の多くの国で使われているスペイン語は、「言語界の平安京」だといいます。平安京言語とは、その言語としての「わかりやすいさ」を示す比喩です。通常小さい集落が時間をかけて大都市化していった場合、道はごちゃごちゃとして初めての人には非常にわかりにくい構造になってしまう。それに対して平安京は最初から「みやこ」を想定して設計された、わかりやすい大都市。言語もこれと同じで長い歴史を経た言語は通常さまざまな不規則性をたくさん抱えることになるわけですが、スペイン語にはそれがほとんどないといいます。発音と文字のずれは小さく、男性名詞と女性名詞の区別も簡単、アクセントもわかりやすく、発音の容易。その規則性は平安京のごとしであると。著者は、スペイン語がこうした「平安京言語」であったことが、南米でスペイン語系のクレオール言語(現地の語とその地を植民地化した帝国の言語の融合・混合語)が生じにくかった理由ではないか、スペイン語がこうした役割を果たしたことが南米にガルシア=マルケスらのマジックリアリズムが生み出された土壌となったのではないか、と推察しています。身近なスペイン語ぺらぺら人間にきいてみたところ、たしかにスペイン語は非常に話やすい言語であるとのこと。

また著者は、「その言語特有のノリとか癖とか何らかの傾向」があり、これが語学で決定的に重要であるといいます。ここでいう言語のノリとは、文法、ことばの使い方、発音、口調、態度、会話の進め方等が含まれます。高野氏によれば、文法上の発音記号がわかっても実際に各言語でどのように発音をするかは多様であるし、実際の「ノリ」を含めて言語を学習することで、相手との意思疎通がスムーズになるそうです。「ノリ」は言語が先か、民族が先か、よくわかりませんが、なかなか興味ぶかい。

 

さてでは、平安京言語たるスペイン語において、「ノリ」はどうなってくるのか。言語に基づいて各地でノリが共有されるのか。それともスペイン語は共有していてもノリは違ってくるのか。

先ほどのスペイン語ぺらぺら人間にきいてみたところ、面白い話がきけました。

彼女は日系南米人の友人がたくさんいますが、そのうち第一世代は大人になってから日本に来た関係上、日本語が不得意です。そんな人々とは日本でもスペイン語で喋ることになるわけですが、そのスペイン語の会話の中に、日本語の語尾に入る「~~ね」という言い回しが混ざるんだそう。スペイン語では英語でいうright?やyou know にあたる言葉があり、それを文の合間に挟んだりするんだそうですが、彼女によればそれはどうにも使いづらい。やわらかい表現である日本語の「ね」よりも言葉が強く、頻繁に文の合間に挟むと変な感じがする。なので、「~~~~(スペイン語)ね」とスペイン語の最後に日本語の「ね」をつけるという自分からするとやや珍妙にみえる喋り方をしているそうなのです。ところが実はこれを日本に住む日系南米人(つまりスペイン語ネイティヴ)の人たちも使っているとのこと。高野氏の言葉を借りるなら、ともにスペイン語で喋りつつ、合間に日本語で「ね」と言いながら日本の「ノリ」を混ぜている、ということになりますね。話をききながら、平易な「平安京言語」たるスペイン語でも、現地(この場合は日本)の「ノリ」を征服しつくすことはないのだなぁ、と思ったのでした。

高野秀行氏ならではの人間味と鋭い洞察がミックスされた、いい本でした。

 

そのほかにこの間読んだ本は、

高野秀行『神に頼って走れ 自転車爆走日本南下旅日記』2008年

インド入国禁止になってしまった著者が、神頼みの名目で日本最南端まで自転車旅行。あふれる少年心と真剣さと。日本は神仏であふれかえっているなぁと改めて思いました。神仏に頼る、というのはいいものかもしれないとか思ってみたり。さわやかな読後感。高野秀行に外れなし。

 

ハメド・オマル・アブディン『わが盲想』2013年

盲目のスーダン人アブディンさんの半生記。文章のあちこちに挟まるスーダンジョーク。

 

川添愛『言語学バーリ・トゥード AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(2021年)

昨年のベストセラーの一冊。言語学者によるエッセイ集。その言葉が間違っているか正しいかを指摘するのではなく、現象を分析する(楽しむ?)のが著者の理論言語学の立場で、本書では言語学の概念を使って著者が身近な素材であーだこーだと考えます。文法からするとかなりぶっ飛んでいるコマーシャルの文言、洋画の不思議な翻訳など。言語学についての知識は皆無ですが、なかなか楽しい。註で紹介されているいろんな文献や著者のほかの著作も読んでみたくなりました。

 

丸山ゴンザレス『世界ヤバすぎ!危険地帯の歩き方』2020年

クレイジージャーニー丸山ゴンザレスの著作。選んだ本がよくなかった気がする。YouTube見てる方が面白い。もう1,2冊くらいは読んでみるつもりです。

 

 

移民の宴と原敬

最近おんぼろスマホを買い替えたおかげで、写真はきれいに撮れるし容量でかくなってアプリは自由に入れられるようになったしで大変ありがたいです。

そんなわけでついにインスタをダウンロードしてみましたが、他のSNSとは入ってくる情報が結構違って面白い。もっぱら食べ物と本の情報収集に使えないかと企んでいるのですが、今のところ無関係なスポーツ動画や動物動画もたくさんとびこんできます。それはそれで好きなんだけども。

ただ、特定のジャンルに偏らずいろんな本を探してみたいとき、インスタは結構便利かもしれません。分野が定まった本であればそれなりに探し方はわかるのですが、インスタだと読書好きや、さらには小さな書店の店主、店員らしき人たちがやたら本の紹介をしてくれているので、うまいこと使えたらいままで全然目に入ってなかったジャンルの本が飛び込んできそうだなと。twitterとかfacebookとはずいぶん違っててSNSごとの使い分けとか棲み分けとかあるんだなぁとあらためて思いました。すこし、うまいこと使えないかと試しみるつもりです。

この数日でまた本を少し読めました。

 

高野秀行『移民の宴 日本に移り住んだ外国人の不思議な食生活』2012年

高野秀行氏が、日本に移り住んだ移民の食生活をインタビュー対象の物語とその人の属するコミュニティ(エスニックコミュニティ、地域社会等)と絡めて描いています。多くの場合、様々な移民たちが料理を作る様を見学(または一緒に調理)し、そして著者も加わっての「宴」が開かれます。これは「ふつう」の移民の食事を知りたいという目的のもと著者がとった方法が、できるだけ「個人」ではなく集団・場に入っていくというやり方だったからです。そして著者が宴が好きだからです。たぶん。

 

とりあげられている人々は実に様々。成田のタイ寺院、被災直後の南三陸町に住むフィリピン人の女性たち、神楽坂のフランス料理店の人々、中華学校群馬県館林市のモスク、横浜鶴見の日系ブラジル人、整体師をする中国からきた朝鮮族ロシア革命で敗戦したのち日本に流れ着いた父を持つロシア人等等。勉強不足な自分は、おお、こんなところにこんなエスニックコミュニティが!と驚かされ、くいしんぼうな自分は、おお、こんなうまそうな食べ物が!と食欲を掻き立てられます。

 

本書で印象的なのは、それぞれの移民の来歴を反映した文化の複雑さ、混在状況です。たとえば神楽坂で出会った「フランス人」は、正確には18歳のときにアルジェリアからフランスへと移民し、今後日本で寿命を迎えるつもりでいます。著者が世話になっていた整体師は中国吉林省の朝鮮自治区出身の朝鮮族。彼は同じ民族としての韓国人についてきかれると、「付き合いないですね。あの人たちは『上から目線』なんですよ」と答えます。中国の朝鮮族の独特の立ち位置が垣間見え、そうした中で生きてきた彼にとって日本は、好き嫌い以前に「気楽」であると。これはいうまでもなく、日本が誰から見ても「気楽」ないい空間だというわけではありません。金城一紀『GO』で、在日朝鮮人が南米を目指す話をあわせて思い出しました。

また、著者が鶴見で出会った日系ブラジル人たちは「沖縄系ブラジル人」で、彼らは今の沖縄でもそれほど食べられていない伝統的な沖縄料理を現在も食べていました。さらに鶴見には沖縄⇒ペルー⇒鶴見の経路をたどった「沖縄系ペルー人」も。

「じゃ、行きつけのペルー・レストランがあるからそこで話しましょう」

「え、ペルー料理?ブラジルじゃなくて……_」私は思わず声をあげた。なぜ日系ブラジル人の取材で、肝心の締めがペルー料理なのだ?

しかしミチエさんは動じない。

「でも、その店、お客の60パーセントはブラジル人だよ。ブラジル人はペルー料理が大好きなの。それに両方とも沖縄人だし」

「え……?」

 

この本の見どころの一つは、移民たちの常識に著者がついていけずに狼狽するところだと思います。

朝鮮族の整体師による、来日時の日本食についての感想。

「生魚、生卵、山芋……ああいう生のものを薄味で出すというのが中国ではありえない。素材の味がそのまま出ちゃうじゃないですか」とまじめな顔で先生は言う。

多くの日本人がきいたらぎょっとする言い回しです。

 

本書では多くの「宴」の様子が描かれています。その中にはモスクでの宴や同じくムスリムであるスーダン人たちとの焼肉パーティなど、お酒を飲めない宴も登場するわけですが、それらが実に楽しそうです。

酒を一滴も飲んでいないのに、まるで酔っ払ったようなのだ。火災の焼肉パーティと同じだ。ムスリムでなくても、仲間うちでの会食は人を酔わせる。それこそが移民の宴の醍醐味なのである。

然り。酒がなくとも親しい人間との美味しい食事は心身を緩ませる。我が家の家訓のうちのもっとも重要なもののひとつであります。

高野秀行の著作の中では、探検・潜入・実践よりも「取材」という面が非常に色濃い作品でした。それゆえに観察や体験以上に、インタビュー対象の言葉の多さが印象的な作品でもあったと思います。

 

・清水唯一朗『原敬 「平民宰相」の虚像と実像』2021年

日本初の「本格的政党内閣」の総理大臣となった原敬の伝記。自分としては、明治維新における賊軍の地(現在の岩手県盛岡市)に生まれ育った原が、日本の近代国家化が進む激動の時期に紆余曲折を経ながら成りあがっていく様が面白かったです。あらためて新書という形で読むと、漫画か?という感じ。 

他方、原政友会が本格的政党内閣をつくるにいたる政治的対抗についてはあまり楽しめず。これは、自分のそっち方面への関心の弱さに多分理由があるんでしょう。本書では原が対抗勢力といかにたたかったか、また党内をまとめ上げ、責任政党に成長させるためにどのような工夫を凝らしたかが丁寧に描かれています。

著者はあとがきで以下のように述べています。

日本に政党政治をもたらした原の功績は大きく、研究者の評価は高い。しかし、一般の評価も、認知度も低い。そこに「政治を嫌う」日本人の国民性が表れているのではないか。「決めること」を避け、「きれいごと」を好んできた私たちの積み重ねが見えるように感じられた。

こうした関心から著者は、原政友会が近代政党とまとまり、政策立案能力を高めていく様を高く評価します。逆に、ポピュリズム的な政治姿勢や、政治への責任を伴わない無責任な論評・意見に対してはなかなか厳しい。

政党に何を求めるか。とりわけ野党に何を求めるか、という問題は現在進行形で最重要なテーマです。少し前に「平成デモクラシーのおわりのあとに」と題された面白い動画がYouTubeにあがっていました。

平成デモクラシーのおわりのあとに 河野有理×山口二郎【2022 春の立憲デモクラシー講座】220722 - YouTube

政治学者であり2010年代の野党側の政治運動のリーダー格の一人であった山口二郎氏と、政治思想史家の河野有理氏の対談です。この中で河野さんは、山口さんたちが強く拒絶する安倍内閣の政治について、それはむしろ90年代以来山口氏も含めた政治学者たちが積極的に求めた実行力のある政治、二大政党制というもののあり方に属するのではないか、と指摘しています。権力への抵抗より、権力をつくる責任を負うこと、その重要性に目を向けるわけです。積極的な展望が語られるわけではありませんが、「平成デモクラシー」についてや、安倍政権評価などの議論もされていて面白いです。ちなみに清水唯一朗氏は1974年生まれ、河野氏は1979年生まれ。

 

原敬』に戻ると、大戦間期を考えるときに原敬的なもので問題は解決したのだろうかという思いが強いです。党内の統合、民主化、政策立案能力。すべてその通りと思いつつ、その外側に広がっている世界、大衆の置いてきぼり感にどうしても目がいってしまう。著者に言わせれば「日本人のそういうところだぞ」という感じかもしれません。

 

「平成デモクラシーのおわりのあと」にどうやって政治に関心を持てるのか。なかなか難しい。

ちょっと余裕のできた日々。そして読書の再開。

かなりひさしぶりの日記になりました。

活動量が多かったわけではないのにいろいろと忙しい日々が続き、ようやくひと段落かな?という状況。気温がおちてきたので、体をあたたかくして過ごしていきたいです。体調もおもったよりはいい感じ。

おいしいものをしっかり食べていきたい。

 

 

覚えている範囲でこの間読んだ本のメモを。

 

金城一紀レヴォリューションNo3』2001年

友人に明るくて楽しい気持ちになれる小説とか教えてくれ、とたずねたところこの本を紹介されました。都内の落ちこぼれ高校生たちの青春劇。おもしろかったー。勢いがあって一気に読めた。ゾンビーズ・シリーズなるシリーズ物の第一作で、他も面白いとのことなので近いうちに読んでみようと思っています。書き下ろしの最終章「異教徒たちの踊り」が特にそうでしたが、かなり昔に読んだ『Go』(ほぼ同時期の本らしい)の読後感をうっすら思い出しました。まだ言葉にできませんが。金城一紀は1968年生まれ。この読後感が世代のものなのか、もうちょっと違う立場やスタンスのものなのか、みたいなことも少し考えたり。以前、在日3世の友人に「『GO』はどう思う?」ときいたところ、「あれは自分たちの1つ上の世代の話って感じなんだよね」と返ってきたことがありました。たぶん読後感と関係するんだろうなと思います。

なお、友人には明るい小説を教えろといったのに、話の序盤では主人公の親友が急性白血病で死にます。明るくない。。いい本ですけどね。

 

若林正恭『ナナメの夕暮れ』2018年

書いた時期が長期におよぶからか、結構読みづらい。傑作の『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』にはだいぶ劣るけれども面白かったです。終盤の書き下ろしの部分の方がいい。増補された文庫版を読むべきだったかもしれない。『表参道~』の着地点がどこにあるのか、興味津々のファンは結構多いのではないでしょうか。この本はまだ中間総括くらい?

 

山里亮太『天才はあきらめた』2018年

若林の本を読んだ流れでこちらにも手を出してみた。南海キャンディーズ山里の半生記ですが、一言でいえば「笑える自己啓発本」という感じ。著者は「天才」を、苦も無く努力をし成果を上げていく人たち、と規定しているようで、そのような意味で「天才」ではなかった自分が、いかにしてネガティブな感情や他方での過剰な自信を制御し、芸の道にエネルギーを注ぎこんでいったかがその具体的な工夫とともに書かれています。生き様が面白い一方で、自分にはすこし胸やけ。本書は相当な数売れたようですが、こんなご時世、わかる気がします。

 

・たつなみ『すこしずるいパズル』2021年

世話になっている先輩からプレゼントしてもらいました。「読んだ」というより「遊んだ」。パズル・クイズ本で、一人でやっていると「ああーわからん!」となり、ヒントを読み進めていくと「なんでヒントなしでわからなかったんだ!くやしい!」と思わされる絶妙なラインの問題がたくさん。思い出したときにちょこっとずつ挑んでおります。いい本をもらいました。人にプレゼントしたいとき、相手の年齢問わず有力候補。

 

高野秀行『アヘン王国潜入記』(2007年。『ビルマ・アヘン王国潜入記』1998年の文庫版)

「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」をポリシーとするノンフィクション作家(探検家?)の高野秀行が、自分の仕事の「背骨」にあたると自負した著作。世界最大のアヘン生産地域であるゴールデントライアングルの中核にしてミャンマー少数民族が「国家」を築くワ州に潜入した約半年の記録。

著者はアヘンのためのケシを栽培している農村に住み着き、種まき、草刈り、採集をともに行います。それどころか最終的には自らがアヘン中毒者となって、ケシ栽培をしている村人たちから「アヘンの使い過ぎはよくない」と注意・心配をされる始末。高野氏は自分は俯瞰や構造の解明を目指す「ジャーナリスト」ではないと述べていますが、本書はそうしたスタンスに立つことの魅力が横溢しています。自らアヘンを使った際の効果の説明、中毒になっていく様。実際に中毒になった著者曰く、アヘンの心地よさとは、「欲望の器」が小さくなることにあるそうです。また、村人たちの協働、喧嘩、飲み会、精霊信仰の様子。また、著者が「準原始共産制」と呼ぶところの農村に、アヘン、市場、「国家」の論理が入り混じっている様も面白い。近代国家がその理屈の外にあった人々に自らの論理を無理矢理押し付けていくという話はもはや常識に属することと思いますが、村に学校が開かれ、文字を知らず、「標準語」なるものをそもそも認識していなかった子どもたちに「標準語」が押し付けられる姿は印象的です。また、採集を手伝った著者に気前よく分け前を与え、さらにはアヘンを吸わせてくれていた村人が、別の局面では村を去ろうとする著者にほかの人間にではなく自分にアヘンを売るよう交渉をする姿など。やはり「枝から果実がちぎれ落ちる瞬間」をとらえた記述には素晴らしい価値があります。

なお、もとは『ビルマ・アヘン王国潜入記』として出版されたのに「ビルマ」を外した理由についても文庫版あとがきで書かれています。つまり、自分が潜入したワ州のその村は、地図の上ではビルマであっても、その実態はまったくビルマではなかったのだ、ということです。

反政府勢力との交渉、言葉の通じない少数民族の村への潜入・生活、ケシの栽培、アヘンの採集・使用。「誰もいかないところへ行き、誰もやらないことをし、誰も書かない本を書く」を見事に実践した本ですが、アヘン云々を抜きにしても読み物として面白い。高野秀行ブーム到来。極力図書館か古本で本を読むようにはしているのですが、出たばかりの『語学の天才まで一億光年』は買っちゃおうかな。

 

高野秀行『ワセダ三畳青春記』2003年

早稲田大学探検部に所属していた高野秀行が、早稲田近くの3畳一間のアパート『野々村荘』に住んでいた時の人々とのかかわりを描いたもの。部屋を借りてから出ることを決断するに至る11年間の(ちょっと遅めの)青春記。「辺境作家」と名乗ることもある著者ですが、この人の文章は別に「辺境」にいかなくても面白い。「誰もいかないところ」ではないし、「誰もやらないこと」かどうかはわかりませんが、そんなことは関係なく。

 

高野秀行『異国トーキョー漂流記』2005年

名作。なんなら最初に他の人に薦めるならこの本かもしれない。東京で出会った様々な国から来た人々との交流記。ペルーからきた”日系ペルー人”との交流と別れを描いた「101人のウエキ系ペルー人」、野球ファンである盲目のスーダン人と東京ドームに野球観戦にいく「トーキョー・ドームの熱い夜」など、内容も素晴らしいが章のタイトルも秀逸。どれも笑えて、そして考えさせられる。出版されたのが2005年。今著者が同じようなテーマで日本のことを書いたらどうなるか。とても興味があります。

 

すこし落ち着いてきたので、もうちょっと本を読む量を増やして、ちまちまブログに書いていけたらなと思います。最近は人に会うたびに面白い本を紹介しろと要求する癖がつきつつあります。

エッセイを読み漁る

さらっと読めそうなものを探して、なぜか小説ではなくエッセイをこの間適当に読みました。

読んだものは、

井上ひさし『この人から受け継ぐもの』岩波現代文庫、2019年

井上ひさし『ひと・ヒト・人 井上ひさしベスト・エッセイ 続』ちくま文庫、2020年

若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』文春文庫、2020年

沢木耕太郎深夜特急5 トルコ・ギリシャ・地中海』新潮文庫、1994年

さくらももこ『ももこの世界あっちこっちめぐり』集英社文庫、2021年

 

図書館で目にとまったもの、ブックオフで110円で売っていたものを適当に集めた結果変なラインナップになりました。上から順に面白かったですが、井上ひさし若林正恭はそれぞれ違う方向に特に面白かったです。さくらももこ以外は面白かったといってもいいのかもしれない。

深夜特急』は、ブックオフで5巻のみが売られていたためになぜかそこだけ読むというひどい読み方に。今度は初めから読んでみたい、と思わせてくれる本ではありました。基本的に紀行文は読んでて楽しいです。

 

 井上ひさしのエッセイはこれまでちゃんと読んだことがなかったのですが、言っている内容や圧倒的な知識量以前に、文章の正確さ(?)に驚かされました。これより文字が多くてもくどくなり、少なくても伝わらない。ほかによりよい表現が見つからない。そんな感じでしょうか。とにかく言葉で表現する力がすごい。

 

 若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』は傑作でした。表現力はもとより、本人の現在の生き様と文体の見事な一体感。いきなり大ヒットを飛ばして世に出てきたミュージシャンを見たときのように、著者はこのような作品を今後も書き続けられるのか?と素人ながら思わされました(誉め言葉)。

 著者が本書で繰り返し使う「新自由主義」という言葉は、著者が家庭教師から教わった基本的な理解から少し離れて、著者自身の人生によって血肉化されています。著者にとって新自由主義とは、とにもかくにも大量の人の目、競争、それらにもとづく不自由の問題であると思われます。いろいろツッコミようはあるかもしれませんが、思想が人を行動に駆り立てるというのはこういうことですね。

 「新自由主義」に自身の不自由の原因を見出しキューバに思いをはせ、キューバで各所をめぐった著者は、しかし実際に滞在するなかでその問題点についてもクソ真面目に考え続けます。キューバ社会主義もどうやら諸手を挙げて褒められるようなものではないようだ、と。著者は「キューバの一番のおすすめの観光名所」として、革命博物館でもきれいなビーチでもなく「マレコン通り沿いの人々の顔」を挙げることで旅を終えます。本書は紀行文であり、その思索の過程です。

 キューバを通して新自由主義下の自分の生活の中にもamistad(血が通った関係)を見出していく著者ですが、本書を読みながら直前に読んでいた井上ひさしのエッセイの文章をいくつか思い起こしました。

そういった生き方の転換は、自分のいま立っている場所でやらなければだめなのです(「ユートピアを求めて 宮沢賢治の歩んだ道」『この人から受け継ぐもの』62頁)

 

万人に通じ合う大切な感情が共有できない、知っていながら知らんぷりをして結局は自己溺愛の中へ逃げ込むしかない……そういった人たちの毎日が少しでもいい方へ変わってくれたらと、喜劇作者は私かに祈り始める。チェーホフもまた、この道を歩いていた(「笑劇・喜劇という方法――私のチェーホフ――」『この人から受け継ぐもの』133頁)

 

私としては、……前回書いたように、万人に通じ合う大切な人間の感情をたがいに共有しあって、他人の不幸を知っていながら知らんぷりをしないと説いたチェーホフを信じ、ユートピアとは別の場所のことではなく自分がいまいる場所のこと、そこをできるだけいいところにするしか、よりよく生きる方法はないということを信じるしかない」(「笑劇・喜劇という方法――私のチェーホフ――」『この人から受け継ぐもの』138頁)

若林正恭の場合、「サル山と資本主義の格差と分断から自由になれる隠しコマンド」として、自分にとっては経済の論理を越えた「血の通った関係と没頭」がそれであったとしています(330頁)。井上ひさしの場合はより絞り込んで、演劇による「時間のユートピア」を掲げます。制度化されるような、永続的なユートピアは無理かもしれないし、またはそもそも望ましいことですらないかもしれない。しかし、一時的に生じる「時を忘れる」ようなユートピアは作りだせるし、それはその場は失われたあとにも「かけら」を残せるのではないか、というわけです。井上は自分は宮沢賢治の志をひきながら、「演劇」を通して「時間のユートピア」をつくろうとしているのだ、と述べています。

 

そうか、

キューバに行ったのではなく、

東京に色を与えに行ったのか。

だけど、この街はまたすぐ灰色になる。

そしたらまた、網膜に色を映しに行かなければ僕は色を失ってしまう(『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』209頁)。

 

 生まれた時代、来歴、性格も異なる著者に何かしら共鳴するものを(勝手に)見出すというのは、乱読、流し読みの楽しさの一つだと思います。

 

『表参道~』の終盤は、自分の周りでこの間起きたことが重なって少し涙が。

 元来速読がひどく苦手なのですが、適当に読み漁る楽しさというのはやはりあるわけで、適当に読んでいく量も増やしていけたらなと思います。小説と並行して、エッセイ、紀行文で面白そうなものを探していきたいです。